痛快、伝統論。岡本太郎著『日本の伝統』

『日本の伝統』(岡本太郎/光文社知恵の森文庫)

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『今日の芸術』のいわば続編(1956年刊行)。岡本太郎による伝統論だ。

だいたい予想はつくが、当然ながら「伝統は素晴らしい」「伝統は大切にしよう」などという空気は微塵も無い(笑)。

いきなりこうくる。

<法隆寺は焼けてけっこう>(50頁)

昭和25年に法隆寺金堂が失火して、壁画が焼失したことにふれての言葉だ。同年の世論調査で十大ニュースの9位に過ぎなかったことをあげ、「嘆いたって、はじまらない」とし、さらにこう言い放つ。

<自分が法隆寺になればよいのです。>(51頁)

これを書いたときは40代半ば。ちょうど今のボクぐらいなのだが、当時のお偉いさん方が一様に眉をひそめるのが目に浮かぶ。

<失われたものが大きいのなら、ならばこそ、それを十分に穴埋めすることはもちろん、その悔いと空虚を逆の力に作用させて、それよりもっとすぐれたものを作る。そう決意すればなんでもない。そしてそれを伝統におしあげたらよいのです。
そのような不逞な気魄にこそ、伝統継承の直流があるのです。むかしの夢によりかかったり、くよくよすることは、現在を侮蔑し、おのれを貧困化することにしかならない。>(51頁)

岡本太郎の哲学では、「現在」こそがすべてであり、どんなに名声高い伝統であっても、「現在」というこの時に生き生きと働きかけてこなければ意味を成さない。

<伝統は自分にかかっている。おれによって生かしうるんだ、と言いはなち、新しい価値を現在に創りあげる。伝統はそういうものによってのみたくましく継承されるのです。形式ではない。受けつがれるものは生命力であり、その業(ごう)―因果律です。>(65頁)

このような岡本太郎が衝撃を受けたのが、「縄文土器」であり、「尾形光琳」であるという。それぞれについての論評のあとに、「庭論」がつづく。京都・奈良などの寺に残る数々の中世の庭園を、独自の視点から解説している。 読んでいると、行ってみたい衝動に駆られる。

岡本太郎の批評には深く鋭い感性と哲学がある。周囲の目をキョロキョロ見回し、上っ面のつながりで満たされようとし、草食的なやさしさに逃げ込みがちな現代の日本人にこそ必要な人であるように思う。とにかく、読むうちに元気が出ること間違いなしだ。

<私は「伝統」を、古い形骸をうち破ることによって、かえってその内容―人間の生命力と可能性を強烈にうちひらき、展開させる、その原動力と考えたい。
(中略)伝統はわれわれの生活の中に、仕事の中に生きて来るものでなければならない。現在の生き甲斐から過去を有効的に捉え、価値として再評価する。そのときに、現在の問題として浮かび上がってくるのです。古いものは常に新しい時代に見かえされることによって、つまり、否定的肯定によって価値づけられる。そして伝統になる。従って伝統は過去ではなくて現在のものだといえます。>(270頁)

 

【今日の一句】

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美しい 歩きは 体にもやさしい

長く歩いても疲れません。

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